不器用な生き方をやめたい

無駄なプライドは捨てた方がいいんじゃない?

家康を追い詰めた真田幸村のすごさ#3

「家康を追い詰めた真田幸村のすごさ#2」の続きです。

self-esteem.hatenablog.jp

前回は、大坂冬の陣での「真田丸の戦い」について書きました。

今回は、幸村の最後の戦いになった「大坂夏の陣」です。

スポンサーリンク
?

 

 徳川の調略

大坂冬の陣の講和が整う前後、真田幸村の能力を認めた家康は、幸村に調略の手を伸ばす。まず、叔父の真田信尹を派遣し、十万石という対価で寝返りを誘う。だが、幸村はこの申し出を断る。

※叔父の真田信伊は、真田本家とは別行動を取っていたが、真田本家のことを絶えず大切に思っており、このころは徳川と真田の橋渡し役を担っていた。

家康は、それぐらいの条件では断られることを想定していたのかもしれない。その後再び、対価を十万石から信濃一国(40万石)に引き上げて、寝返りを誘う。しかし幸村は、「この信繁、十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」と申し出を断った

幸村は、私利私欲よりも志(こころざし)や理念を重視するタイプの人物だったと思われる。

※筋を通す人のようだ。

 大坂夏の陣が始まる

大坂夏の陣では、大坂城の堀を埋められてしまったため、大坂方は城を出て戦わざるを得なくなった。当初幸村が主張した迎撃策と大差ないのではないか…と思うかもしれないが、そのときとは全く状況が違う。

もはや選択肢がなく、心理的に追い詰められた状態(大坂城を攻められたら終了)で、かつ窮しても大坂城を使いながら戦うことができない状況なのだ。この時点で敗色が漂っており、兵の士気を保つのが難しかっただろうと想像できる(冬の陣のときよりも、はるかに不利な状況だ)。

※徳川方からみれば、わかりやすい状況になり、打つ手が明確になった。

・道明寺の戦いに遅参する

このとき幸村はすでに、死の覚悟をしている。

幸村と勝永の二人は基次の陣を訪れ「道明寺で合流し夜明け前に国分を越え狭い場所で徳川軍を迎え撃ち、3人が死ぬか両将軍の首を取るかどちらかになるまで戦おう」と誓い、訣別の盃を酌み交わして別れた。
出典:道明寺の戦い

幸村の隊は、先行した後藤基次隊に合流する予定だったが、濃霧のため到着が遅れてしまう。

正午頃、約8時間もの激闘の末、後藤は戦死、後藤隊も壊滅した。
出典:ウィキペディア

そのため、後藤基次は単独で戦うことを決断する。

後藤隊は文字通り孤軍奮闘するが、戦力差の大きさはいかんともしがたく、ついには壊滅してしまう。徳川方がすでに大軍には不利な狭い場所を抜け、国分村に展開しているという想定外のこともあった(内通者がいたため、大坂方の作戦が漏れていたともいわれる)。

この遅参は、幸村にとって痛恨の極みであった。

所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。
出典:ウィキペディア

※それでも午後の戦い(誉田の戦い)では、伊達軍と大激戦をしている。

幸村は盟友の後藤基次を失い、豊臣家の御運が尽きたとまで考えた。だが、ここでもすばやく気持ちを切り替え立て直した。退却に伴う殿(しんがり)を務めたのだ。

追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。この撤退戦の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。
出典:ウィキペディア

殿(しんがり)の役目は敵の追撃を阻止し、本隊の退却をサポートすることだ。

なので、戦闘で兵が減っても、兵の供給はされない。援軍は全く期待できないのだ。また、自らも退却する必要がある。その場で踏み留まって全滅してはいけないのだ。したがって、背後をとられながら戦うという非常に困難な状況になる。

進むよりは、退くことの方がはるかに難しいのだ。

自らの遅参で「痛恨の極み」という思いをして打ちのめされた幸村が、すぐにこの困難な殿(しんがり)を務めることができた…というのは、すごいことだと思う。

※メンタルの強さが光る。

 最終決戦(天王寺口の戦い)

一度退却して、態勢を立て直した豊臣方は、最後の作戦ともいえる策を練る。

それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。
出典:ウィキペディア

しかし、この作戦は、味方勢の動きの不備によりあえなく破綻する。この状況を把握した幸村は、当初の作戦の遂行を断念し、自ら家康を倒すことだけに集中する。幸村は「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ」とつぶやいたそうだ

この言葉から「万事休す」で、半ばやけくそで大将を狙いに行ったのか?と思うかもしれないが、実はそうではない。幸村は家康襲撃のために、あらかじめ周到な準備をしていたのだ。

ひとつは、情報網の構築だ。

情報網を駆使して家康の居場所をキャッチする。身の安全を図り、次々に陣を移す家康。徳川軍にとってさえ最高機密である大御所の現在地を、正確に把握していた。
出典:真田幸村:弱者の戦いは「選択と集中」

家康の居場所がわからなければ、襲撃することができない。家康は敵の急襲を避けるため、同じ場所には長く留まらず、陣を次々に移すが、その情報をかなり正確に得ていたというのだ。

さらに、幸村は二人の影武者を用意していた。

さらに、幸村は家康の本陣に最後の突撃を敢行したとき、2人の影武者を用意している。自分自身が斬り倒されることなく敵陣の最深部まで到達するための策だ。
出典:真田幸村:弱者の戦いは「選択と集中

幸村自身は、不要な装飾を排した甲冑を用意していた。

真田丸攻防戦の直前、家康襲撃を企図した際に着用したと伝わる甲冑「南蛮胴総革威(なんばんどうそうがわおどし)」は不要な装飾を排し、実戦に即した機能美を醸し出す。そこに、幸村の秘めたる決意を感じる。
出典:「家康の首ただ一つに狙いを定めた」子孫が語る知将の秘めたる決意

つまり幸村は、家康襲撃のために、あらかじめ周到な準備をしており、(不利な現状を冷静に受け止めた上で)それらを最大限活用しようとしたのだ。

この最後の戦いでは、真田勢だけではなく、毛利など他の豊臣勢も奮闘し徳川勢に混乱を生じさせた。その味方の奮闘もあり、真田勢は一万五千もの大軍を突破し、後方に位置していた家康の本陣に迫る。※徳川軍15万5千、豊臣軍5万5千。

信繁率いる真田隊は、越前松平家松平忠直隊・15,000の大軍を突破し、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、後方の家康本陣に突入。親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙した。
出典:ウィキペディア

真田勢の集中力は凄まじく、家康の本陣は大混乱に陥る。

幸村は、浅野が寝返ったという「虚報を流す」という策も用いながら(相手の動揺を誘い)血路を開き、家康の本陣を3度にわたり襲撃する。

そして大混乱の中、家康の馬印(将のそばに立て目じるしとした印 )が倒される。ちなみに、家康の馬印が倒されたのは、武田信玄との「三方ヶ原の戦い」以来二度目でこれが最後である。

その混乱の間、家康は二度切腹を覚悟したという。家康の護衛の兵が散って、家康が孤立した瞬間もあったようだ。さすがの家康も、ここまで追いつめられるとは考えていなかった。

しかし、真田勢の消耗も激しく、混乱は徐々に終息し、兵力で勝る徳川勢が態勢を立て直し盛り返す。形勢が逆転してしまうと、兵力の足りない真田勢にもう勝ち目はない。幸村は神社の境内で傷ついた身体を休めているときに敵に見つかり、最後を迎えることになる。享年49歳であった。

 まとめ

真田幸村は、人格的にも能力的にも優れた稀有な人物であった。

また、リスクを嫌う生き方をする武将が多い中で、チャレンジ精神を持ち続けており、ここぞという場面では、リスクを厭わず取りに行った。とはいえ、やみくもにリスクをとったわけではない。困難な状況下でもわずかな勝算を見い出し、そこに賭ける度胸があった。

そして、勝つために最善の手段を尽くしている。

さらに、特筆すべきは切り替えの早さだ。最善策を取れなくても、次善策を常に探っている。自分の提案が通らなくても、腐ったり投げやりになったりする…という様子は全くない。(決まれば)すぐに気持ちを切り替えて、次善策に全力を尽くしているのだ。

※切り替えの早さとメンタルの強さ&柔軟さがあった。

このような幸村の姿に、部下たちは全幅の信頼を置いていたのだろう。真田の赤備え(赤備えは優れた武将が率いる精鋭部隊であることが多い)は有名だが、高い士気と固いチームワークで戦ったことが容易に想像できる。その証拠に、幸村の配下からは、最後まで落伍者が出なかったそうだ。

真田幸村(信繁)は、稀に見る優れたリーダーだったのだ。

↓ 家康を追い詰めた真田幸村のすごさ

self-esteem.hatenablog.jp

self-esteem.hatenablog.jp