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時計じかけのオレンジが心に爪痕を残す理由

時計じかけのオレンジという映画を、ご存じだろうか。

この映画の評価はいろいろある。稀代の名作だという人がいれば、B級映画だ、何がおもしろいのか全くわからない、暴力を肯定する内容で趣味に合わない…という人もいる。私の評価は、おもしろくないということはない、名作かどうかはさておき、心に爪痕を残す映画ではある…というものだ。何度も見返したいとは思わないが、みたときは後からジワジワくる映画でもある。

今回は、「時計じかけのオレンジ」について書いてみたい。

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目次

時計じかけのオレンジ


A Clockwork Orange - Masterpiece Trailer

原作は、A.バージェスが1962年に発表した小説だ。

この小説は、近未来SF小説とか、ディストピア小説と評される。ディストピア小説は、空想的な未来を舞台にした小説で、そこでは反ユートピア(反理想郷)的な社会が描かれる。そのために、社会の不条理を拡大して見せたり、専制的、統制的な政治のスタイルを表現したりする。

時計じかけのオレンジは、この原作をもとに、スタンリー・キューブリック監督が映画化した作品だ。公開は1971年。ウィキペディアの評では、「暴力やセックスなど、欲望の限りを尽くす荒廃した自由放任と、管理された全体主義社会とのジレンマを描いた、サタイア(風刺)的作品」ということになる。

また、「キューブリックの大胆さと繊細さによって、人間の持つ非人間性を悪の舞踊劇ともいうべき作品に昇華させている」とされている作品だ。「悪の舞踏劇」という表現は、言い得て妙だ。

スタンリー・キューブリックという監督

映画をあまりみない人も、キューブリックという名前は聞いたことがあると思う。

キューブリックは、地頭は悪くないが学業は振るわない、というタイプだったようだ(リソースを音楽など、学業とは別の部分に使ったのだろう)。大学を中退後、音楽の道に進むことを模索したが、カメラマンとしてキャリアの取っ掛かりを得る。その後、映画制作の道に踏み出すが、その理由が、「今の連中より上手く撮れる自信があるから」というものだった。

完璧主義者で、映画製作ではすべてにおいて掌握しようとした。そのため、映画製作における決定権が監督にない(もしくは、制限される)ことについて、憤りを覚えていたようだ。

完璧主義については、テイク数の多さ(2秒程度のシーンに、190以上のテイクを費やしたこともある)や、日本語の字幕についても(再翻訳で)チェックし、ダメを出したこともある、というエピソードからうかがうことができる。

カーク・ダグラスは彼のことを「talented shit」と評したそうだ。

映像と音楽

キューブリック作品は、映像と音楽で差別化することに成功している。

時計じかけのオレンジでも、その世界を存分に楽しめる。ちょっとしたメークや衣装、小物、個性的なインテリア、壁に書かれている文字(落書きを含む)、奇抜な色使い、ベートーヴェン第九交響曲を「キー」にして使う、ということもしている。

キューブリックは、ジャズに造詣が深いので、音楽に対する知識やセンスがあるのは当たり前かもしれない。だが、「2001年宇宙の旅」でみせたように、映像と音楽をシンクロさせるセンスには、独特のものがある。時計じかけのオレンジでも、そのセンスを遺憾なく発揮している。

※映像と音楽の絶妙な融合ぶりが、みる人の印象を強くするのだ。

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理不尽な暴力を止められない

時計じかけのオレンジでは、理不尽な暴力シーンが多い。

社会から捨てられた老人(この社会では、老人になると捨てられるようだ)に対し、暴力をふるう。不良グループ同士で乱闘する。このあたりは、映画では普通にあることかもしれないが、その後、盗んだ車で郊外まで出かけ、事故を装い助けを求めて民家に押し入り、乱暴狼藉をはたらく…というのは、常軌を逸している。

そのとき、民家の主人(作家)が親切心から家の扉を開けるようにいうが、その親切心が仇になるという構図は嫌な感じだ。後日、アレックスたちは、同様の犯罪を計画する。だが、そのときの住民は、作家の事件を知っており、扉を開けず警察に電話する。つまり、極めて正しい対応をしているのだが、それにもかかわらず、侵入してきたアレックスに殺害されてしまう。この構図もかなり嫌だ。仲間に裏切られなかったら、捕まりもしなかっただろう。

※どんな対応をしても、理不尽な目にあっている。

雨に唄えばの違和感

作家夫婦への暴行シーンで、アレックスは歌を口ずさむ。

それが、「雨に唄えば」だ。この「雨に唄えば」は、キューブリックの周到な計算か、と思ったのだが、そうではないそうだ。あのシーンは、キューブリックの「(歌って)踊れるか?」という問いかけに対し、アレックス役のマルコムが、唯一出すことのできた答えだそうだ(マルコムは、「雨に唄えば」ぐらいしか口ずさめなかった)。

実は、このシーンで撮影が何日も停滞していたのだが、このマルコムの答えにキューブリックは満足したのだろう。マルコムのアドリブが、そのまま使われることになった。キューブリックが(このシーンは映画のアイコンになると)長考し、満足しただけあって、強烈な(ある意味)違和感を伴うシーンになっている。キューブリックは、「創発」を待ち、それをうまく利用したとできる

※こういう強い違和感を伴うシーンは、記憶に残りやすい。

理不尽さを感じてしまう

まず、アレックスたちの暴力を止める手立てがない。

彼らには、道徳観や倫理観、遵法精神というものがない。親切にしても、「恩を仇で返す」ということを平気で行う。警戒しても、ガードを突き破ってくる。とても、理不尽なのだ。

理不尽といえば、出所したアレックスに居場所がなかったり(両親が他人に部屋を貸しており、なぜかその他人と親子同然のような関係を築いていた)、老人に小銭を与えると、その老人がたまたま昔ボコった老人で、今度は逆にボコられる、警官が助けてくれたと思ったら、かつての仲間でボコられる…ということがあった。

※(行動から評価すれば)善人になったはずなのに、ボコられている。昔の暴力仲間が捕まりもせず、警官になっている…というのも理不尽だ(笑)。しかも、彼らは警官であるにもかかわらず、相変わらず遵法精神をもたず、暴力をふるっている。アレックスを裏切る⇒警官になる⇒出所したアレックスをボコる、という流れも理不尽だ。

マルコム・マクダウェルがハマりすぎ

主役のアレックスを演じた、マルコム・マクダウェルがハマりすぎている。

おもしろい映画の場合、たいていこの人しか主役をイメージできない…という状態になるが、まさしくそうなっている。キューブリックは、マルコムが出演している作品をみて、「アレックスを見つけた」と言ったそうだ。そして、オーディションをすることなく、キャスティングしたそうだ。

この人の特徴は、非対称の笑顔だろう。いい笑顔の条件は、左右対称であることだ。対称であれば、自然な笑顔になり、人に好印象を与える。一方、非対称の場合は、「人をバカにしている」、「含むところがある」という印象になる。この非対称の笑顔は演技かと思ったのだが、そうではないようだ(笑)。この悪辣な笑顔が、見る人にインパクトを与えている。

※最後のシーンでも、この笑顔がインパクトを強めている。

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まとめ

今回は、「時計じかけのオレンジ」について書いてみた。

なぜこの映画が心に爪痕を残すのか…と考えたのだが、人の感情に働きかける力が強いためだろう。その力の源泉は、斬新で個性的、スタイリッシュな映像であったり、映像と音楽の絶妙な融合ぶりであったり、強い違和感を伴うシーンであったり、強く理不尽さを感じさせるシーンであったり…ということだ。

※違和感といえば、ミルクバーでミルクを飲むシーンもそうだ。ミルクにはドラッグが入っているという設定のようだが、ドラッグが入っていない普通のミルクを飲む設定の方が、より違和感が増したと思う。最初にみたときは、そのように解釈したので、かなり違和感を感じた(笑)。

※絵面については、「昔の人が考えたダサめの未来」と評価する人もいると思う(笑)。だが、どこか本質をつくヘタウマの絵をみているような、おもしろい感覚もある。

キューブリックは、この力を用い、みる人の心に塑性変形(もとに戻らない変形)を与えているのだ。言い換えれば、みる人の心に爪痕を残す作品になっている、ということだ。

今回の記事:「時計じかけのオレンジが心に爪痕を残す理由」