ないものねだりをする人がいる。
ないものねだりとは、「自分にないものを欲しがる」という意味だ。
ないものねだりをする人は、今の自分にないものを得ることで、自分の不満な気持ちを解消することができる、自分を変えることができる、(ひいては)レベルアップできる…と考える。
たとえば、自分に自信のない人で、○○ができるようになれば自信がつく、と考える人がいる。
これは、今は自分に自信がないけれど、自分の努力または他人の力を借りて、自分の目指す状態になれば(今の自分にないものを入手できれば)自信を得ることができる、という意味だ。
だが、本当にそうなるのだろうか。※自信を自分にないものとして書いてみたい。
目次
自信がつくは本当か?
前者の例(自分の努力がベース)は、たとえば「ブログを書くこと」で説明できる。
ブログを書き始める前の段階では、「自分の書いたものを読む人がいるのだろうか?」、「自分の書いたものに価値があるのだろうか?」などの思いが頭をめぐる。これは、自信のない状態だ。
※わたしもそうだったが、多くの人がそんな思いに囚われるだろう。
成功体験を積み重ねる
自信のない状態からブログを書き始めるが…
それでも日々ブログを書いていくうちに、ブログを書くスキルが上がってきた、最初は0に近かったアクセスが少しずつ増えてきた、スターやブクマがつく、SNSで拡散されることが出てきた…などの小さな「成功体験」を重ねることで、少しずつ自信が培(つちか)われていく。
自信はつくがそう単純な話ではない
後者の例(他人の力がベース)は、たとえば「美容整形」だ。そこまで行かなくても、「歯列矯正」などでもいい。自身のコンプレックスを解消することにより自信を得る、という理屈だ。
わたしはどちらのケースも否定はしないが、「そう単純な話でもないよ」と考えている。自信を得たはいいけれど、得た自信を、「本当に維持できるのか?」という大きな問題があるからだ。
自分にないものを得ても…
順応の問題がある
人はいいことにもそうでないことにも慣れてしまう。
ただ、恐ろしいのは嬉しい出来事が続くと嬉しい出来事に慣れてしまうことです。
嬉しい出来事がいつの間にか「当たり前」になってしまうのです。これは嬉しい出来事のインフレ化だと思います
出典:嬉しさに慣れると嬉しさを感じなくなる
努力を積み重ねて目指す学校・会社に入ることができた。確かにそのときはうれしい。
小躍りするぐらいの気持ちかもしれない。しかしその気持ちは続かない。意中の人と付き合うことができた、結婚できた、子どもができたなど、うれしいイベント(成功体験)があっても、その時感じる気持ちがずっと続くことはない。その状況に慣れて当たり前になってしまうからだ。
その状態に慣れてしまう
この現象は、感情の「平均への回帰」だと思っている。
失恋などで気持ちが深く傷ついても、時間の経過で癒されるというのはこの現象だろう。
もし、失恋直後の気持ちが将来までずっと続く…というのであれば、人生お先真っ暗になってしまう。そう考えると、「慣れ」というのは、身体の防衛反応のようなものかもしれない。
※人にはどんなことにも慣れる、という特徴がある。
自信を維持することはむずかしい
先の「美容整形」や「歯列矯正」の例でも同じである。
施術によりコンプレックスがなくなった、これで自分に自信が持てる…と当初は考えると思う。
事実、自信を持つだろう。問題はその自信をずっと保てるかどうかだ。その状態が当たり前になってしまった後、(慣れを乗り越えて)当初の「獲得した自信」を維持できるのだろうか?
別のコンプレックスが問題になる
もしかすると、そのうち別のコンプレックスが気になり始め、以前のように悩むかもしれない。
そうなってしまうと、元の木阿弥に近いのではないか?
せっかく得た自信も霧散してしまうのではないだろうか…。一度獲得した自信が、そのまま続けばいいが、あまり期待できないと思う。別のコンプレックスにスポットライトを当て、また自信がなくなってしまうだろう。※特にネガティブな人は、こんな感じになってしまう。
新たに獲得した自信を維持することは、思うよりむずかしいのだ。
高原状態から自信が危うくなる…
「学習高原」というものがある。
学習時間をどれだけ延長しても学習効果が殆ど上がらなくなる現象
出典:学習理論の高原現象
何であれ、いくら努力しても成果が出ない、という時期はある。
ブログを書く例でいえば、毎日のように記事を書いているが、PVが頭打ち。なぜか、これまでのように伸びない…伸びないどころか、むしろ減ることもある…そういう時期のことだ。
努力しても成果が出ない…という状態は、精神的にかなりしんどい。
自信は一気に崩れる
そんなときは、自信が一気に崩れるときでもある。
これまで正しい努力をしてきたつもりだが、努力の仕方が間違っているのではないか…。
書くスキルが上がったと思っていたが、自分が思うほどではないのではないか…。自分の書いたものにはそれほど価値がないのではないか…などと、自分を疑う疑心暗鬼の状態になるのだ。
※ブログであれば、書くのをやめてしまう…ということにつながる。
こうなってしまうと、せっかくそれまで積み上げてきた自信が一気に崩れかねないのだ。したがって、この時期を乗り越える何らかの術を持っていないと、自信をたもつことは難しくなる。
※高原状態をどう乗り切るか…が、問題になる。
代わりにこうすればいい
自信のない自分を許す・認める
自信のない自分を許す、認める、という考え方がある。
自分に自信がないという人は、「○○ができるようになれば自信がつく」という発想よりも、「自信のない(今の)自分を許して認める」という発想の方がいいのではないかと思う。
自信のない人というのは、もともと長所よりも欠点を見つけるのがうまく、疑心暗鬼に陥りやすいタイプだ。このタイプの人が「順応」や「高原状態」の問題をクリアできるとは考えにくい。
つまり、一時的に自信を持つことができても、それを維持することはできない。そうであれば、はじめから自信のない自分を許し認めることだ。そうすれば、順応も高原状態も関係なくなる。
許す認めることが結果に繋がる
自信のあることはいいことだけれど、自信があるように見せる必要はない(逆にカッコ悪い)し、自信がなくてもOKだ、とすればいい。それで気持ちが楽になるのではないだろうか。気持ちの上でリラックスできれば、成果にもつながると思う。肩肘を張って生きても、仕方がないのだ。
ないものねだりをやめたい - サマリー
まとめ
今回は、「ないものねだりをやめたい」というテーマで書いてみた。
※自信をネタに書いてみた(自信を自分にないものと想定して書いた)。
自分にないあれがあれば・あれができれば自信がつくのではないか、成功体験を積めば自信がつくのでは…と考えることは自然だし、間違ってはいない。前者はともかく、後者は正しいだろう。
ただ、そう単純な話ではない、ということも確かだ。
自信や満足感は崩れやすいし(特に、積み重ねることなく簡単に得た自信は簡単に崩れる)、維持することが大変なのだ。なのではじめから、自信のない自分を許し認める(持たない自分を許し認める)、という発想の方がいいだろう。
そうすれば、厄介な「ないものねだり」の問題から解放されるはずだ。
行動メモ:
ないものねだりはやめる。
自分にない「あれ」があれば…と思うことはあるが、その発想では上手くいかない。
実際にないものを手に入れたとしても、効果を維持することがむずかしい。苦労してないものを手に入れたのに、意外と大したことないな…と思うことはよくあること。なので、闇雲なないものねだりをやめて、「あるもの」で勝負する、「あるもの」を最大限活かす、という考え方をとる。
その上で、「自分にない何かを求める」ということであればいいだろう。
今回の記事:「ないものねだりをやめたい」