もっと社交的になりたい…と思うことがあるかもしれない。
社交的になれば、人と出会う機会が多くなり、チャンスをつかめる確率が上がるだろう。
社交的な人には、明るく元気である、わかりやすい、という特徴がある。表情も豊かなので、人に好かれやすくなるだろう。このタイプの人は、「あの人は何を考えているのかわからない…」と言われることはない。人は一般に、明るく元気でわかりやすいものに惹かれるものだ。
だが、わたしは必ずしも社交的になる必要はない、と考えている。
目次
社交的な人とは
社交的の意味は、「つきあいに積極的で、つきあい方の上手なさま」ということらしい。
なので、社交的な人は、人との付き合いに積極的であり、付き合い方も上手な人…ということになるだろう。人との付き合いに積極的であれば、(数をこなすことで)対人関係のスキルが上がり、付き合いも上手になる…ということだろう。
なぜ社交的な人が付き合いに積極的なのか、といえば、人と交わることで活力を得る作りになっているためだ。このタイプの人の場合は、外に出て人と交わることが、生きるエネルギーになる。
社交的になりたい…と思う
社交的ではない人が、そうなりたい…と思うことはあると思う。
ひとつは、「ないものねだり」のせいだ。人が持ち自分が持たない特長は、とても優れた特長のように感じることがある。それは、「ないものねだり」という感覚のせいだろう。
※ないものを欲しがる ⇒ 手に入らない ⇒ 余計に優れたもののように感じる
さらに、社交的なことがいいことだ、という刷り込みがある。
いろいろな人と積極的に交わろうとする人が優れた人だ、という刷り込みがある。求人の募集要項の中に、「明るくて元気な方」、「社交的な方」、「接客が好きな方」、「人とのコミュニケーションが好きな方」というものを見たりすると、その刷り込みが強化されることになるだろう。
その必要はない
人との交わり方が違う
ここからは、社交的になりたい…と思う必要はない、ということを書いてみたい。
まず、社交的でない人は、社交的な人とは人との交わり方が違う、ということがある。
後者の人は、多くの付き合いを必要とする。どちらかといえば、浅く広く…という付き合い方になる。一方、前者の人は、多くの付き合いを必要とせず、比較的狭く深く…という付き合い方を好むようになっている。
このことは生得的な気質(作り)に基づく嗜好であり、良い悪い、という話ではない。
もしそうしようとすれば…
もし、非社交的な人が社交的に行動しようとすれば、かなり疲れる。
実は前者の人でも、(無理をすれば)そういう行動をすることはできる。
わたしも大勢の人が集まるパーティのような場で、そういう振る舞いをしたことがある。そのときは、「自分も社交的に振舞えるじゃん…」と悦に入っていたのだが(笑)、そのあとが問題だ。
たとえば、そのとき知り合った多くの人と関係を深めたい…と思わないし、そう思ったとしても、付き合いでエネルギーを消費する、という自分の生得的な作りから考えると無理があるのだ。
中身のある話を好む
非社交的な人は、中身のある話を好む。
だから、自分がそうできない…と思えば、口をつぐんでしまう。
非社交的な人は、人とのコミュニケーションで多くのエネルギーを使う、という作りになっているため、人とのコミュニケーションは極力合理的にしよう、とするのだろう。ただ、こういう姿勢だと、何で話さないのか、何を出し惜しみしているのか…と、相手の不興を買うことになりやすい。
※ある意味、社交性とはほど遠い特徴を持つのだ。
自己否定につながる
非社交的な人が社交的な人になろうとすれば、自分の個性を潰すことになる。
人とは比較的狭く深く交わりたい、中身のある話をしたい、コミュニケーションにおいて合理性を追究する、という特徴は個性である。個性は個性として認め尊重すべきであり、それを潰すことは自分を否定することになりかねない。
認知上の解釈で自己否定を回避できるかもしれないが、自己否定につながりやすいことは確かだ。
社交的になることはできるが…
非社交的な人でも、社交的になることはできる。
ひとつの方法は、演じることで社交的に振舞う、というものだ。
先に、パーティでそういう振る舞いをした、と書いたが、「演じていた」とすることができる。たとえば、非社交的な俳優さんでも、社交的なキャラクターを演じることができる。逆に、社交的な俳優さんが、非社交的なキャラクターを演じることもできるだろう。演技の力は侮れない(笑)。
根っこからそうしようと思えば…
演じるのではなく、根っこからそうしようと思えばどうか。
不可能ではないと思うが、相当な時間とエネルギーを要するだろう。
苦手なものを克服するためには、本当にコツコツと改善の努力を積み上げる必要がある。もともと得意なことをより得意にすることはそうむずかしくないが、苦手なものを普通のレベルに引き上げることはとてもむずかしいのだ。なので、得意なことを伸ばした方がいいのではないだろうか。
※生得的な「作り」の問題なので、そう簡単な話ではない。
社交的になりたい…と思う必要はない - サマリー
まとめ
今回は、社交的になりたい…と思う必要はない、というテーマで書いてみた。
そう思うのは自然なことだ。冒頭で書いたように、社交的な人は好かれやすいし(非社交的な人から嫌われることはあるが)、比較的チャンスも掴みやすい。
だが、必ずしもそう思う必要はない。
仮にそうしようとしても、生得的な作りの問題でむずかしい。
下手にそうしようとすると、人づきあいで疲れ果ててしまう(人づきあいでエネルギーをたくさん消費する、という作り(仕様)になっている)。また、個性を潰すことにつながりかねない。その思いが強いと、自己否定につながることもあるだろう。
※自分を否定しても、(弊害があるだけで)いいことは何もない。
ボトルネックになるときのみ
ただし、非社交性の程度が高く、ボトルネックになっている…という場合は別だ。
その場合は、改善のために相当な時間とエネルギーをかける理由になり得るためだ。それ以外の場合は、今の自分に社交的な好ましい行動を取り入れてみる、程度でいいのではないかと考える。
今回の記事:「社交的になりたい…と思う必要はない」