職場や学校に「嫌いな人」がいると思う。
嫌いな人ができると、気持ちが暗転し憂鬱になる。
その人のことを無駄に考えて、自分の限られたリソースを無駄に消費してしまう。嫌いな人の存在で、楽しくない・その場に行きたくない、ということにもなる。しかし、仕事であればそうするしかない。嫌でも、コミュニケーションをとらなければいけない場合もある。
嫌いな人ができた場合、どうすればいいのだろうか。
目次
嫌いな人はいる
嫌いな人がいる
職場や学校に一人や二人、嫌いな人がいるものだ。
相手が「自分を嫌っているな…」と感じることがある。
たとえば、話をするときに<全く目を合わそうとしない人>がいる。控えめな様子でそうする人についてはそう思わないが、目線を横に逸らしたり、相手の存在を無視するかのような態度でコミュニケーションを取ろうとする人は、たいてい相手のことを嫌っている。
仕事上、渋々必要最小限のコミュニケーションをとっている、というボディランゲージだ。
相手が自分を嫌っているな…と感じれば、自分も相手を嫌うことになる。
相手の存在を認めない
嫌いな相手の存在を認めない、という人もいる。
このタイプの人は、徹底して嫌いな人とのコミュニケーションを避ける。
あいさつをされても、ガン無視か、気付かないふりをしてあいさつを返さない。
通路ですれ違っても、目線を合わそうとしない。あからさまに顔を背けることもある。偶然、ぶつかりそうになったとき、お互いが「申し訳ない」という態度を取れば何も問題がないのだが、そんなときでも目線を合わそうとしないし、無言かつ無表情だ。
こういう人に悪感情を抱くのは、当然のことだ。
かなり嫌な気分になる
嫌いな人がいると、かなり嫌な気分になる。
その人の存在を認識するだけで、嫌だし、嫌な記憶もよみがえる。
嫌なできごとは、感情と一緒に記憶に刻み込まれるので忘れにくい。そのことを思い出し嫌な気分になる。侮辱されたり、失礼な態度をとられれば、下手をすると一生記憶に残ることになる。ひいては、自分を嫌な気分にさせる相手の存在自体にも気が滅入る。
やっかいなことに、嫌いな人のことはなかなか頭から離れない。
どう対処すればいいのか
自責の観点から考える
まず、「相手を嫌い」は横に置き、自責の観点から考えてみよう。
相手が自分を嫌っているからこちらも嫌う、というケースを考えてみる。
もしかすると、自分が先に悪い印象を抱いたのではないか。その態度が相手に伝わり、相手が自分を嫌うようになったのではないか。自分が抱いた悪印象は、合理的な理由に基づくものであったのか。そうだとしても、悪印象に基づく<不適切な言動による表現>があったのではないか。
相手が嫌がる言動をしなかったか、無礼や失礼がなかったか、と考えてみる。
人を嫌ってもいいが、そのことを相手に対し表現する必要はない。
論理的に分析してみる
なぜ自分はその人のことが嫌いなのか、と考えてみる。
嫌いのカウンター以外にも、嫌いになる理由はいろいろある。
生理的に嫌い、はあるし、相手の言動や態度が嫌い、また、相手に対する嫉妬から嫌いになることもある。その人を嫌いになることで、自我を保ったり、プライドを守る、というケースもあるだろう。
その人を嫌いになることで、自分を表現する、という側面があるのだ。
自己分析に繋げてみる
自分がどういう人を嫌っているのか、整理してみる。
たとえば、自分に対し失礼な態度をとる人が嫌いだ、としよう。
その場合、「どの程度の失礼まで許容しているのか」と考える。自分がつい他の人にやってしまう失礼程度までは許容しているのか、そうではないのか。後者であれば、自分のプライドが必要以上に高いのではないか、自分の寛容さに問題があるのではないか、自分に自信がなく自分を守りすぎているのではないか、と考えてみる。
自分の価値観から逸脱した言動をする人を嫌いだ、としよう。
この場合も、自分の器が小さいのではないか、自分ができないことをやる相手に対し、嫉妬しているのではないか、こちらの価値観を相手と共有できないので、腹立たしく思うのではないか、自分の価値観を守るために、相手を嫌っているのではないか、と考えてみる。
自分がどういう人を嫌っているのかを知ることで、自己分析に繋げてみる。
学びにつなげ「+」に
人を嫌いになる、という事象は、人間関係におけるイベントだ。
好ましくないイベントではあるが、折角のイベントであれば、学びに繋げたい。
嫌いな人ができると、その人のことが頭にこびりついて離れない。その人のことを長い時間考えることで、無駄なリソースを消費しているわけだ。そこまで考えるのであれば、アウトプットすればいい、というのがひとつの提案だ。ブログを書く人であれば、記事にすればいい。
検索してみるとそのような記事もある。読むと書き手のリアルな感情が伝わってきておもしろい。負のエネルギーでも、エネルギーである。そのエネルギーを使えばいい。書き終わると、一定の区切りは付く。もちろん、本人やまわりの人に伝わるような形で書くのはNGだが。
先に述べた「自己分析する」ということも、「+」にする方法になる。
関係を修復するのは…
人との関係が一度悪くなると、それを修復するのはむずかしい。
悪化した関係を修復しようとすれば、相当なコミュニケーション能力が必要になる。
※素直さ、不要なプライドを捨てることも必要だ。
そもそも、人を嫌ってその人との関係を悪くする人は、コミュニケーション能力が高いとは言えないので、修復することはまずできない。人間関係を悪くすることは、「覆水盆に返らず」を覚悟する必要がある。
だから、嫌いな人であっても、自分からあえて関係を悪くする必要はない。
最後の一線は守りたい
最低限の気遣いは必要
人を嫌うということは、場の雰囲気を悪くすることである。
職場や学校で誰かを嫌えば、その人からのカウンターで嫌われることになる。
嫌い⇔嫌い、という関係が増えると、その場の雰囲気は確実に悪くなるだろう。雰囲気を悪くする人というのは、その場に歓迎されない。ゆえに、その場から次第に自分の居場所がなくなっていくことになる。だから、人を自分から嫌うのは悪手になるのだ。
とはいえ、人を嫌うのは自然なことだし、してはいけないということではない。
してはいけないことは、その<嫌い>を相手やまわりに表現することだ。
コミュニケーション能力が高い人は、嫌いな相手であっても、目線を合わせず横を向いて話すようなことはしない。「あなたのことを嫌っています」という表現を極力しないように努力している。
大人であれば、嫌いな人に対しても、最低限の気遣いはするようにしたい。