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家康を追い詰めた真田幸村のすごさ#2

「家康を追い詰めた真田幸村のすごさ」の続きです。

self-esteem.hatenablog.jp

前回は、幸村(信繁)が九度山を脱出し、大坂に参陣するまでのことを書きました。

今回は、大坂冬の陣の「真田丸の戦い」をメインに書いてみたいと思います。

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 大坂冬の陣

大坂冬の陣」で幸村は、籠城(ろうじょう)案に反対し、徳川勢を迎え撃つことを主張した。※大坂方の権力者たちは、大坂城に対する絶対の自信からか籠城案を支持していた。

信繁は当初からの大坂城籠城案に真っ向から反対し、先ずは京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田まで積極的に討って出て徳川家康率いる軍勢を迎え撃つよう主張した。
出典:ウィキペディア

この案を浪人たちが支持していた、という事実に注目したい。

幸村の迎撃案が浪人たちから賛同を得ていることを考えると、彼らが納得できる合理的な戦術だったと思われる。また、幸村は新参者であり、かつ疑われる立場であった(兄の信之が徳川方についているため)が、それでも、彼らが幸村の案を支持したということは、 幸村の能力を認め信頼していたと考えられる。

しかし、大坂城内のパワーバランスの結果、この案は採用されずに終わってしまう。

東軍のスパイである小幡景憲の後押しもあり、西軍の方針は篭城策に決定した。
出典:大坂冬の陣(真田丸での奮闘)

東軍の間者(スパイ)である小幡景憲が籠城に賛同していることから、徳川は幸村の迎撃策が嫌だったことがわかる。※援軍の来ない籠城策は、籠城する側にとって未来のない策になる。

幸村は軍議で「籠城する前に、まだ徳川の大軍すべてが畿内に揃わないうちに一度打って出て相手を叩く。緒戦を飾ることで、豊臣側に味方したいと思っている全国の侍に決断の火をつけるべきだ」と主張している。しかし、安全志向の消極型リーダーによって却下される。
出典:PRESIDENT 迷いが晴れる歴史・古典入門

幸村の真の狙いは、相手の戦力が整わないうちに戦いを挑み緒戦を飾ることで、豊臣につこうかどうか迷っている勢力の後押しをすることだった。(歴史に if はないが)もし、幸村の案が採用されていれば、この狙いが当たり、その後の状況が変わっていたかもしれない。

・すぐに「次善の策」を模索した

幸村は最善の策を却下されて、本当に失望したと思う。

消極的な大坂方の権力者に対し、「わかっていないな…」と思ったはずだ。

徳川に勝てる見込みのある唯一の策が、幸村の迎撃策だったからだ。※秀吉による小田原征伐のようなもので、(幸村には)籠城策では勝てないことがわかっていた。

しかし、幸村のすごいところは、すぐに気持ちを切り替えて、「次善の策」を模索したところだ。

実は大阪城には、秀吉も悩んだ弱点があった。

大坂城三の丸の南側、玉造口外だ。ここを責められると、堅牢な大阪城も比較的弱い。この弱点をなんとかすべく、幸村は「真田丸」と呼ばれる三日月形の砦(とりで)を築くことにした。ここを拠点として大軍相手に善戦し、相手に予想以上の損害を与えることで、何らかの活路を見いだせるかもしれない…と考えたのだ。

だが実は、この砦を築くのも大変だった。

幸村はここに、砦を構えることで南方の弱点を補強しようと考え、砦を築く許可を求めた。しかし、幸村は新参者であるためになかなか信用してもらえなかった。
出典:大坂冬の陣(真田丸での奮闘)

新参者が浴びる洗礼かもしれないが、この理にかなった提案もなかなか通らなかった。

おそらく幸村は、迎撃策が却下されたときの教訓も生かし、まわりの有力者を巻き込みつつ、粘り強く大坂城の権力者たちを説得したのではないか…と思う。

 「真田丸」の戦い

真田幸村らにとっては厳しい状況の中で、大坂冬の陣の戦いがはじまる。

※堅牢な大坂城だが、援軍を期待できない籠城戦は、極めて不利である。

全国の大名を主力とする徳川軍20万が大坂城を包囲。豊臣軍10万が城に籠もった史上最大の籠城戦だ。その最も激しい戦闘が真田丸攻防戦だった。
出典:産経ニュース

20万の兵が城を囲み、10万の兵が城に籠るという…前代未聞の史上最大規模の籠城戦だが、その矢面に立ったのが「真田丸」であった。※ここで、最も激しい戦闘が起こる。

真田丸」は従来、城内と簡単に行き来できる構造と考えられてきたが、最新の等高線調査によって、城とは大きな谷を隔てた孤立無援の砦だった可能性が高まった。

出典:産経ニュース

真田丸」は、大阪城とがっちり連結した作りではなく、独立した砦(とりで)ではないか、との説がある。真田丸の地形を調査したところ、大阪城との間にがけや谷があり、独立(孤立)しているというのだ。

「あえて戦の定石に反した城外孤立の砦を築いて格好の標的となり、徳川勢の主力を引き受け、その隙に西側の他の部隊が反撃を仕掛ける。それが幸村の作戦だったのかもしれません。幸村は、常識を超えた戦略の持ち主。まさに恐るべき知将です」
出典:産経ニュース

幸村の狙いは、(仮説だが)大阪城の弱点に位置する「真田丸」に敵の主力をひきつけ、その間に他の部隊がゲリラ的に敵を急襲するというものだ。幸村は、あえて狙われやすいように、「真田丸」を独立した形の砦(とりで)にしている。真田丸をおいしい「おとり」にしているのだ。

※これは、幸村の「策」なのだ。

徳川方からすれば、砦(とりで)を落とせば、(大坂城の弱点をつけるので)戦況がより有利になる+大きな手柄にもなるので、狙いに行く動機がある。

こう考えると、前回ふれた上田合戦での戦いぶりとよく似ていることがわかる。おそらく、数で劣る側が籠城戦で勝とうとすれば、この方法が最善に近いのだ。

・幸村のおとり作戦

真田丸の前方には「篠山」と呼ばれる丘があった。

真田丸の正面には、前田利常が率いる主力部隊が対峙していた。彼らは戦いに備えて塹壕を掘り、土塁を築く作業をしていた。真田はその作業を妨害すべく、真田丸の前方に位置する「篠山」と呼ばれる丘に兵を配置し、作業をしている兵を狙撃した。

この妨害に業を煮やした前田勢は、篠山を奪取することを考える。(この行動を読んでいた真田勢は)前田勢が夜陰に乗じて攻め上がる前に篠山から撤収する。そしてその後、肩透かしをくらった形になった前田勢の間の抜けた行動を愚弄し挑発した。

幸村は、兵にこのような口上を述べさせたという。

「前田家の方々、篠山を囲んだようだが何のためですか?狩りですか?鳥獣なら貴殿らの発砲で驚いてみな逃げてしまったようですぞ。もし暇があるようでしたら、我らがお相手してもよろしいが。それともこのような小城は相手にできませんかな?」
出典:真田丸の攻防

大名家の名前を出し、「小城ひとつ落とせないのか?」と挑発したのだ。相手を引くに引けないようにする、心理的な挑発である。これには、相手の理性を奪うという目的もあった。※その結果、前田の軍勢は、竹束や盾を用意していない中途半端な状態で突っ込んでしまった。

前田勢はその挑発に乗ってしまい、真田丸に攻めかけた。真田勢は、前田勢が充分城壁にとりついたところに銃撃を浴びせ、前田勢に大損害を与えた。
出典:ウィキペディア

相手の心理を手玉に取ったおとり作戦で相手をおびき寄せ、集まったところを一気に叩くという戦術だ。これが見事にはまり、前田勢は多大な損害を出し、退却せざるを得なくなってしまった。

前田勢に呼応して動いたほかの徳川方の軍勢も、かなりの損害をだしてしまった。徳川方の戦死者の8割が、真田丸の戦いによるものだともいわれている。

真田丸の攻防戦で、東軍は松平忠直隊480騎、前田利常隊300騎が戦死し、雑兵の戦死者は数知れないという大損害を受けた真田丸での敗戦の報告を受けた家康は、機嫌が悪くなったという。
出典:大坂冬の陣真田丸での奮闘)

この知らせを聞いた家康が、不機嫌になったことは言うまでもない。

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・戦いではこんな気遣いを見せていた

大坂冬の陣では、徳川方に組する兄の信之は病のため出陣せず、息子たちが信之の名代として出陣していた。このことを知っていた幸村は、あえて真田の六文銭の旗印を使わず、別の旗印を使った。これは、甥たちがバツの悪い思いをしないようにした、幸村の気遣いだとされている。

 「真田丸」が取り壊される

その徳川にとっては、目障りで仕方のない真田丸だったが…

徳川は講和によって、コトを有利に運ぼうとする。

講和条件のひとつとして、真田丸の取り壊しを盛り込んだのだ。当然のごとく幸村は講和に反対したが、ここでも大阪城のパワーバランスに屈することになる。

幸村など浪人衆をはじめ、講和に反対の意見が多かった。
出典:大坂冬の陣真田丸での奮闘)

大坂城の権力者たちは、「浪人たちが講和に反対しているのは、(戦がなくなれば)食い扶持がなくなるからだろう」とまで主張したそうだ。幸村のリーダーシップと比べれば、残念なそれといわざるを得ない。

そして、大坂城の最後の砦である真田丸は、あえなく取り壊されてしまうことになる。

冬の陣の講和後、この真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまった。
出典:ウィキペディア

堀が埋め立てられ真田丸も取り壊し…とあっては、もはや大坂城を守ることはできない。籠城戦という選択肢は、完全になくなってしまった。このとき、幸村は何を思ったのだろうか?

大坂夏の陣に続く。

↓ 家康を追い詰めた真田幸村のすごさ#3

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