不器用な生き方をやめたい

無駄なプライドは捨てた方がいいんじゃない?

無駄ではない「無駄だと思うこと」に注意する

私は「無駄」という言葉をよく使う。

このブログのサブタイトルを「無駄なプライドは捨てた方がいいんじゃない?」としているし、記事の中でも、無駄なコスト、無駄なリソース、無駄に消耗など、よく無駄と書いている。

無駄は嫌だという気持ちがあるためだが、「一見無駄に見えても、別の角度から見れば無駄ではないでしょ」、「無駄というのは、自分の勝手な決めつけ・思い込みじゃないの?」と思うこともある。※無駄か無駄ではないかの判断はむずかしい。

実際、無駄だと思っても、無駄ではない、ということがある。なので、見極めが必要になる。今回は、無駄ではない「無駄だと思うこと」に注意する、というテーマで書いてみたい。

目次

不器用な人は無駄が嫌い

無駄ではない仕事をする女性

不器用な人は、総じて「無駄」が嫌いだ。

不器用な人は、「自分は物事に柔軟に対応できない…」と思っているため、想定外のことが起きると、思考停止したり、一瞬パニックになったりする。

たとえば、突然、それほど親しくない知り合いに、後ろから声をかけられたらどんな反応をするだろう?昔の知り合いから突然電話がかかってきたら、どんな反応をするだろうか?

どちらのケースも、人間関係において好ましいとされるリアクションはとれないだろう。

無駄話をしたくないという気持ちがある

先に述べたように、「自分は物事に柔軟に対応できない…」と思っているから、対応がぎこちなくなる、ということがある。

もうひとつ重要な理由として、「無駄話をしたくない…」という気持ちもあるのだ。

親しくない知人も昔の知人も、自分の今の生活にはほとんど関係ない。そんな人たちとコミュニケーションをとっても、ある意味「無駄だ」と思うのだ。

※その気持ちが、好ましくないリアクションにつながるので、無駄話は「無駄ではない」と考えた方がよさそうだ。

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何をもって「無駄」というのか

では、何をもって「無駄」とするのだろうか。

使わないモノを買ってしまった…これはわかりやすい無駄だ。

今後使う予定も市場価値もないモノを大事に収納している…これも無駄だ。目的地に到着するまでに、余計な時間とお金がかかった…時間とお金の無駄だ。メールやSNSを必要以上にチェックして時間を浪費した…これは時間の無駄である。

これらの例から、無駄の定義をどのように考えればいいのだろうか?

ひとつの定義は、

実際にかけたコスト(時間やお金など) ー 合理的に処理した場合のコスト = 無駄

ということだろうか。右辺が「0」であれば、無駄ではないと感じる。

見方により無駄の評価が変わる

ところが、人によって(同じ事象に対しての)評価が変わることがある。

宝くじを買う…私にはお金の無駄に見えるが、夢を買ったんだ、当選発表まで夢を見ることができて、その間、仕事や生活に対するモチベーションも上がるから無駄ではない、と主張する人がいるかもしれない。

そうであれば、その人にとっては(宝くじを買うことは)無駄ではないのだろう。

上述の知人の話もそうだ。親しくない知人や昔の知人とコミュニケーションをとることは「無駄だ」と考える人がいる一方、「そんなことはない」と考える人もいるだろう。

普段あまり接することのない人とコミュニケーションをとることで、新しい刺激を受けたり、情報を得ることができる…と考えれば、無駄とは思わないはずだ。

人によって評価が変わること、もっといえば、見方により評価が変わること(同じ人でも評価が変わる)。これが、無駄を判断するときのひとつめの難しさだ。

時間により無駄の評価が変わる

時間によって、評価が変わることもある。

そのときは無駄に見えても、後から考えると無駄ではなかった…ということがある。

私は学生のころ、大学のリベラルアーツ(ここでは大雑把に一般教養とする)教育は無駄ではないか…と考えていた。「○○を学びたくて大学に入ったのに、なぜそれとは全く関係のない文学や歴史を学ばなければいけないのか?」というものだ。同様に、高校のときは、「受験の科目ではない○○を、どうして勉強しないといけないのか?」と考えていた。

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経験を積むことで評価が変わる

社会人になってからも、同じようなことがある。

私は会社員のとき、人脈のことを軽視していた。社内の人脈を作ることについても軽視していたし、ましてや社外の人脈など必要ないだろ…ぐらいの認識であった。なので、社内外の人から(人脈構築のための)誘いを受けることがあっても、「無駄だ」としてほとんど断っていた。

3つ例を挙げたが、今では「どれも無駄ではない」と考えている。

時間によって評価が変わる。もっといえば、経験を積むことによって評価が変わる。これが、無駄を判断するときの2つめの難しさだ。

両サイドの視点から評価する

使わないモノを買ってしまった…などのわかりやすい無駄以外のケースでは、無駄である・無駄ではない、の両方の情報をフラットな姿勢で集めた方がいい。

直感的に無駄だと思ってもそうでないことはあるし、(限られた情報をもとに)合理的に考えて無駄だと思ってもそうでないことがある。

先に挙げた、「受験の科目ではない○○を、どうして勉強しないといけないのか?」について考えてみよう。

合理的に考えると、リソースを受験科目に集中した方が(大学入試において)良い結果が出るのではないか…となる。これは、時間軸を限れば正しい。受験の直前になって、受験科目以外の科目を勉強しても仕方がない(無駄になる)ためだ。

受験に関係ない科目の勉強は無駄ではない

だが、1年、2年前に、受験科目以外の科目を勉強することには意味がある。学問というのは、根底の部分で繋がっているため、いろいろなことを学ぶことで相互作用が期待できるからだ。

たとえば、地理と歴史は別の科目だが、歴史という人が織りなすストーリーの中で、国境や地名が決まり、その土地の人口、経済、政治、文化、産業、教育などが決まる。

なので、地理と歴史をリンクさせて学んだ方が、別々に学ぶより理解が深まり、しっかりした記憶になることは、想像に難くない(記憶が定着しやすくなるだろう)。

理系の科目についても同様だ。

ミレニアム懸賞問題の一つであるポアンカレ予想を、多くの数学者が位相幾何学トポロジー)の観点から挑戦する中、微分幾何学や物理学的アプローチで解決したことで知られる
出典:ウィキペディア

たとえば、ペレルマンポアンカレ予想を物理学的アプローチを用いて解決した。 物理に数学が必要なのは当たり前だが、数学にも物理が必要になることがあるのだ。

※受験に関係ない科目の勉強は、無駄ではないのだ。

時間の無駄と即断せずやってみる

無駄かどうかわからない…というものに関しては、まず「無駄ではないのでは?」と考えることだ。そして、実際にやってみればいい。

たとえば、客先で世間話をすることは無駄だ、と考える営業マンがいるかもしれないが、やってみたら、客との関係が良くなって、ビジネスにも良い影響が出るかもしれない。また、すぐにビジネスに結びつく客ではないので、足を運ぶのは無駄だ…と考えるかもしれないが、

何度も見たり、聞いたりすると、次第によい感情が起こるようになってくる。たとえば、よく会う人や、何度も聞いている音楽は、好きになっていく
出典:ウィキペディア

このような心理的な効果(ザイオンス効果)があるので、やってみたら、思ったよりも早くビジネスに結びついた…というケースは普通にある。何度も会っている人(もちろん、感じのいい人である必要はある)に便宜を図りたい…と思うのは、人の自然な感情なのだ。

なので、迷ったら「無駄ではないだろう」とポジティブに解釈してやってみることだ。

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まとめ

今回は、無駄ではない「無駄だと思うこと」に注意する、というテーマで書いた。

はっきり無駄とわかるものはあるが、そうでないものもある。問題は後者だ。見方によって無駄かどうかの評価が変わるし、時間を要して経験を積むことによって、その評価が変わることもあるからだ(後から気づいても遅い)。

正しい判断をするためには、まず、両サイドの視点からフェアに評価することだ。

両方の情報をフラットな姿勢で集めて、双方を突き合わせてよく考える。それらの情報が不十分な段階で、直感や合理的な思考に頼ってはいけない。※考えるときは、バイアスに注意する。

次に、それでもわからない…というものに関しては、「無駄ではない」と考え、やってみることだ。実際には、やってみないとわからないこともたくさんあるのだ。

良い結果が出ればそれでOKだし、やってみて無駄だという結論が出ても、曖昧だったものをグレーからブラックに仕分けすることが出来たとすれば、それでOKだ。

今回の記事:「無駄ではない「無駄だと思うこと」に注意する」