不器用な生き方をやめたい

人の心理や特徴を踏まえて合理的に行動したい

劣等感の強い人はどうすればいいのか

劣等感を持ったことがない…という人はいないだろう。

そのような感情を持つと、どうすればいいのかわからなくなることもある。

劣等感を(努力して)克服した方がいいのだろうか。それとも、克服する必要はないのだろうか。それを克服した方がいいとすれば、どのように努力・対処すればいいのだろうか。

劣等感の強い人は、どうすればいいのだろうか。

目次

劣等感は誰でも持っている

劣等感の強い人

劣等感は多くの人が持っている。功成り名遂げた人でも、持っていることがある。

なので、ごく普通の人が劣等感を持っていても、何ら不思議はない。

誰でも、程度の差はあれ、コンプレックスを持っている。
人である限り、どこかに欠点や自分が直視したくない部分があるためだ。だが、コンプレックスを四六時中抱えているように見える人もいれば、コンプレックスを全く持っていないように見える人もいる。これは、自分のコンプレックスに対する考え方や処理の仕方が違うためだ。
出典:自分のコンプレックスをどうすればいいのか?

※ここではあえて、劣等感=コンプレックスとする。

だが、劣等感を四六時中抱えているように見える人もいれば、劣等感を全く持っていないように見える人もいる。

前者の人には「いくらなんでも、劣等感を持ちすぎだろう…」と思う。

後者の人には「なぜこの人は、劣等感を持たないのだろう…」と不思議に思うこともある。この違いは何か…と考えると、自身の劣等感に対する考え方や処理の仕方、ということになる。

対応が人により違う

劣等感を自分で膨らませてしまう人がいれば、劣等感を無害化することができる人もいる。

さらには、劣等感を前進するエネルギーに変換することのできる人もいるのだ。つまり、人により劣等感に対する考え方や処理の仕方の違いがあり、そこで道が分かれる…ということになる。

※道を大きく分ければ、この3通りに集約されるだろう。

スポンサーリンク
 

 

劣等感を無害化することはできる

劣等感を無害化することは、誰にでもできると思う。

ひとつの方法として、不要な劣等感を持たないようにすること、がある。

優越感と劣等感は表裏一体なので、優越感を持たなければ、劣等感を持つこともない。優越感を小さくすれば、劣等感もそれに合わせて小さくなるのだ。
出典:偉い人に緊張する人しない人

そのための手段として、優越感を持たないようにする…ということがある。

劣等感と優越感は、コインの裏表のように表裏一体なので、優越感をなくせば、劣等感もなくなるし、優越感を小さくすれば、劣等感もそれに合わせて小さくなるのだ

優越感を小さくする

では、どのようにして優越感を小さくすればいいのか…だが、

やり方はいろいろあると思う。たとえば、優越感を持つことにはデメリットが大きい(劣等感がもれなくついてくる)のでやめる、と考えてもいい。

また、優越感を感じそうになったら、別の角度から考えてみる、

人を外形的な属性で判断しない、人と比較せず、自分のことに集中する(自分の過去と比較する)、謙虚さの大切さを思い出し、謙虚になることを意識する…など、いろいろあるだろう。

別の角度から考えてみる

優越感を感じそうになったら、別の角度から考えてみる、をもう少し具体的に説明すると、

たとえば、「そんなことも知らないのか…」と思い相手を見下しそうになったら、いやいやこの人は、別のことについては、はるかに自分より詳しいではないか…と思い直す、ということだ。

優越感を持たないようにして、劣等感の総量を小さくしてしまえば、無害化できるのだ。

心理学による劣等感の捉え方は

ここからは、アドラー心理学による劣等感の捉え方について書いてみたい。

「劣等感は誰でも持っている」という考え方は同じだ。

若干違うのは、わたしたちが普通に使う劣等感を、劣等感と「劣等コンプレックス」に区別しているところだ。そして、劣等感自体は、「何ら悪いものではない」としている。

正しい劣等感はバネになる

アドラー心理学では、「劣等感はバネになる」という考え方をとる。

人には、「向上したい」という普遍的な欲求(優越性の追求)があるが、理想と現実のギャップを感じたとき、あたかも劣っているような感覚を持つ。これが劣等感というものだ。

※劣っているような感覚 = 劣等感

アドラーは「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」と語っています。劣等感も使い方さえ間違えなければ、努力や成長の促進剤となるのです
出典:「嫌われる勇気」, 岸見 一郎, 古賀 史健 p.80

この話はよくわかる。

もともと人には、理想と現実の間にあるギャップを埋めようとする性質がある。

たとえば、自分の欠点や上手くいかない現実を見たとき、がっかりすることがあると思う。

劣等感を抱くこともあるだろう。そのときは落ち込むが、やがて「なんとかしたい」という気持ちが出てくるものだ。むずかしい言葉でいえば、「補償したい」という気持ちだ。

劣等感を利用し補償すればいい

以下は、ナポレオンの例だが…

ナポレオンの場合は、劣等感を権力を得ることで大きく補償した。「私の辞書に不可能という文字はない」という言葉で象徴されるように、「みじめな思い」を何とかしたいと思い、「強気」で補償したのだ。
出典:強く願えば夢が叶うは本当か?

彼は劣等感を上手に使い、補償したのだ。

このことは、レベルは違えど普通の人にも、十分できることだ。

まず、「なんとかしたい」という気持ちを持ち、「努力で現状を変えることができる」と考え、正しい努力を積み上げる方向に進めば、劣等感は「努力や成長の促進剤」となるのだ

ダメな劣等感のバネは壊れている

アドラー心理学では、ダメな劣等感を「劣等コンプレックス」と呼ぶ。

※劣等感ではなく、「劣等コンプレックス」として明確に区別している。また、劣等感とコンプレックスは別物だとしている(本来コンプレックスは、劣等感とは関係がないものだ)。

※コンプレックスとは、複雑(複合的)で倒錯的な心理状態を表す用語。

「劣等コンプレックス」を持つと、

そして、自分は頭が悪いからだとか、学歴が十分ではないからだとか、容姿がイマイチだからだとか…とにかく自分がダメな理由をあげつらうのが上手だ。
しかし、そんな思考をしても全く意味がない。意味がないどころかマイナスだ。「ダメだ」と思ったら、本当にダメになってしまう。「すばらしい」と思っても、すばらしくはなれないかもしれないが(笑)、ダメだと思えばダメになるのだ。
出典:人生に失敗する人の言動

「自分はダメだ…」という発想になる。

そして、理想を追うことをあきらめ、自分は頭が悪いから、学歴が十分ではないから、容姿がイマイチだから…など、とにかく自分がダメな理由をあげつらうことになる。

学歴が十分ではないから、○○会社に就職することができなかった…このことには、ある程度真実も含まれると思うが、アドラー心理学では、「見かけの因果律」と呼ぶそうだ。

わたしの解釈だが、そのいくばくかの真実に囚われて、必要以上に因果関係を評価し、(言い訳に納得し)あきらめてしまうよりも、できることに集中する環境を整えた方がいいのではないか…ということだ。※そうすることで、正しい劣等感に変換する、ということになる。

スポンサーリンク
 

 

自慢で補償してはいけない

ダメな劣等感を持つ人は、自慢するようになる。

このことをアドラー心理学では、「優越コンプレックス」と呼ぶそうだ。自慢は「補償」の手段である。

ナポレオンの場合は、劣等感を自ら権力を得ることで大きく補償したが、ダメな劣等感を持つ人は、他者の権威などを利用して、補償しようとする。または、自分の過去の栄光を自慢することで、補償しようとする。

ダメな劣等感が強ければ強いほど、この補償行動も強くなるのだ。

なので、自分が何か自慢をしたくなったら、「ダメな劣等感を持っているのではないか…」と疑った方がいい(その疑いは大抵当たっている)。自慢したいと思ったら、黄信号なのだ。

まとめ

今回は、「劣等感」について書いてみた。

「劣等感を克服した方がいいのか?」という問いに対する答えだが、

克服ということが、劣等感を0にすることであれば、必ずしも克服する必要はない。劣等感を無害化する、劣等感を成長の促進剤にする…という意味であれば、(努力して)克服すればいい・した方がいい、ということになる。

劣等感の強い人というのは、劣等感の落とし穴(ダメな劣等感を持つこと)にはまって苦しみやすい反面、「大きな可能性を持つ人」とすることができる。

落とし穴を回避して、劣等感を成長の促進剤にすることができれば、ナポレオンではないが、大変な飛躍を遂げる可能性がある。

そのためには、向上心を持ち、「努力を積み重ねることで現状を変えることができる」と信じ、正しい努力を模索しながらそれを積み重ねる方向に進む…ということが必要になる。

そういう意味合いでこの感覚に向き合い、努力し前に進めばいいと思う。

今回の記事:「劣等感の強い人はどうすればいいのか」